広島平和記念公園

1949年 (昭和24)8月6日の 「広島平和記念都市建設法」 の制定にともない、この地区一帯は平和記念施設 (へいわきねんしせつ) として整備されることとなり、現在の平和記念公園に生まれかわりました。 公園面積は約122,100平方メートル (約37,000坪(つぼ))。 設計は、丹下健三・東大助教授 (当時) 他3名の共同作品で、設計競技による 145点の中から入選したものです。 公園の南端 (なんたん) には、広島平和記念資料館 (東館・本館) と並(なら)んで、広島国際会議場があります。 
 

■原爆死没者慰霊碑

 世界最初の原子爆弾によって壊滅した広島市を、平和都市として再建することを念願して昭和27年(1952年)に建立されました。

碑の前面には、「安らかに眠って下さい、過ちはくり返しませぬから」との平和への強い願いが刻み込まれております。

御影石の石室には、286,818人(平成25年8月6日現在)の名前を記入した過去帳104冊が納められています

   
原爆供養塔
 
内部には納骨堂があり、一家全滅で身内の見つからない遺骨や氏名の判明しない遺骨が約7万柱納められています。また、今でも820柱の遺骨は引き取り手がなく、この供養塔の中に眠っています。
毎年8月6日には、様々な宗教、宗派の合同供養慰霊祭が営まれています。
 
 
   

原爆の子の像

爆心地北方約2キロメートルの自宅で、原爆の閃光を浴びた佐々木禎子さん(当時2歳)は、幟町小学校六年生の時、原爆後障害といわれる白血病にかかり、赤十字病院に入院、折鶴を千羽折れば病気が治ると信じ、薬の包み紙や包装紙などで1,300羽以上の鶴を折り続けました。

しかし、願い空しく被爆から10年後、12歳で亡くなりました。

禎子さんの死に衝撃を受けた同級生たちは、「原爆で亡くなったすべての子どもたちのために慰霊碑を作ろう」と全国に呼びかけました。

やがて子どもたちによる募金活動が始まり、全国3,200校余りの生徒とイギリスをはじめ世界9か国からの支援により像は完成しました。

   

平和記念資料館

原爆の恐ろしさと平和の尊さを訴える平和記念資料館。本館と東館に分かれ、東館1階から入館します。東館は被爆前と被爆後の広島、広島に原爆が投下された経緯など。
本館は、原爆の熱線、爆風、放射線、高熱火災のすさまじさを物語る資料の数々を展示し、あの日広島に何が起こったのかを伝えています。
開館時間
3月〜11月 8:30〜18:00  (8月は19時閉館) 
12月〜2月 8:30〜17:00

(入館は閉館30分前までにお願いします。)

年末年始 12月29日〜1月1日 休館
観覧料 大人(大学生以上)50円、
     小・中・高生30円

詳しくはこちらをご覧ください。
 
   
 

平和の鐘

ドーム型の鐘楼は宇宙を表現しています。鐘の表面には「世界は一つ」を象徴する国境のない世界地図が浮き彫りにされています。また、撞座には、原水爆禁止の思いを込めて原子力のマークが彫られています。
鐘楼の周囲の池には、蓮が植えられていますが、被爆当時蓮の葉で傷を覆い痛みをしのいだという被爆者の霊を慰めるものです。
あなたも平和への願いを込めて、鐘を撞いてみてください。



 
   

平和の時計塔

世界人類を象徴した直径2mの球体が、平和都市ヒロシマ市民の深い祈りの手と、苦難を乗り越え無限に伸びていく平和への希望を表した高さ20mの鉄塔3本に支えられています。
毎日午前8時15分、全世界に向けてこの時計塔のチャイムが「ノーモアヒロシマ」の祈りを込めて鳴らされております。


 
 
   
 

動員学徒慰霊塔

第二次世界大戦中、労働力不足を補うため、勤労奉仕に動員され戦禍に倒れた学徒と、原爆の犠牲となった学徒を含めた約1万人の霊を慰めるため建立されたものです。
平和の女神像と8羽の鳩を配した高さ12メートルの有田焼の陶板仕上げで、末広がりの5層の塔の中心柱には、慰霊の灯明がついています。
4枚のレリーフの裏側には全国戦没学徒出身校352校の校名と動員学徒悼歌「ほのおはてては」が記されています。

 
   

国立広島原爆死没者追悼平和祈念館

国として、原爆死没者に対する追悼の意を表し、永遠の平和を祈念するとともに、原爆の惨禍に関する世界中の人々の理解を深め、被爆体験を後代に承継するために建設されました。
地上部の中央には、原爆投下時刻の8時15分を示すモニュメントを設置し、地下2階には、原爆死没者を静かに追悼し、平和について深く思索するための「平和祈念・死没者追悼空間などがあります。


 
 
   
 
 レストハウス(元大正屋呉服店)
 この建物は、昭和4年(1929年)大正屋呉服店として建築された建物ですが、被爆時は燃料会館として使用されていました。

当時37名の方が勤務しておられましたが、内8名は負傷しながらも脱出、たまたま地下室に書類を取りにいかれていた「野村英三さん」一人を除き、その数年以内に亡くなられました。

野村さんも昭和57年(1982年)84歳で亡くなられました。

和57年からは、平和記念公園レストハウスとして使用されています。