三瀧寺は大同元年(806)弘法大師が唐からの帰途に安芸国を巡り、この地三滝を聖地と定め「正観示現」の梵字を天然石に刻み、岩窟に安置したところに始まると伝えられています。
 その後、文政9年(1826年)「明憚(みょうぜん)」が三滝山へ入山し、龍泉寺を開基するまで千年余り霊験あらたかということで参拝者が堪えることはなかったと言われています。残念ながら度重なる土石流により記録が紛失したためにこの間の事情は分かりません。
 「明憚(みょうぜん)」は明治17年(1884)に死去するまでの60年間、観音堂、本堂、鎮守堂、鐘堂の建立に努めました。
 その「明憚」の後を受け「四鬼神(よきしん)」が宮島の弥山より来往し、三鬼堂を建立し、同寺の降盛に貢献しました。師は大変徳の高い人だったと伝えられています。
 「四鬼神(よきしん)」は明治37年(1904)に死去し、弟子の「要憲(ようけん)」がその意志を受けて諸堂の再築再建に努めました。三瀧寺を特徴づけている33体の摩崖仏観音像や四国88ヶ所の本尊を模した石仏は「要憲(ようけん)」の時代に作られました。
 現在の佐藤元宣住職は「要憲」の孫にあたられます。
 三瀧寺はかって「三つの滝に幾夜うたれて龍泉寺、胸の仏の姿みるまで」と、ご詠歌に歌われていますが、いつの頃か「龍泉山・三瀧寺」と呼ばれるようになりました。
 尚、「三滝町」の町名は昭和8年の広島市の町名変更によってできたものです。


     

“三瀧”の名称の由来となった三つの滝「幽明の滝」「梵音の滝」「駒ヶ滝」・・・一番下に位置するこの駒ヶ滝は他の二つの滝と違って段々になった滝です。

 三つの滝はかって、「雌瀧」「雄瀧」「駒が瀧」と呼ばれていたそうですが、この「駒ヶ滝」は昔も今も呼び方は変わっていなとのことです。

下流には、龍門瀑(登竜門)に見立てた滝があります。




三瀧寺本堂

三瀧寺(みたきでら)は、三滝山の中腹にある高野山真言宗のお寺です。806(大同元)年唐から帰った弘法大師がこの地を霊地と定め、梵字一字を石に刻み岩の中に安置したのが三瀧観音堂だと伝えられています。

観音本堂の建立年代は不明、銀山城主武田刑部大輔源信守(鎌倉の人)が本堂を修築した記録が残っています。江戸時代には龍泉寺とも称していたそうです。その後、明治初年、明禅僧正によって方形瓦葺に改築されましたが、大正年間に再三水害に見舞われ、また、1945(昭和20)年86日原爆爆風により屋根や建具など破損、建物は半壊しましたが応急修理でしのいでいたそうです。

1968(昭和43)年に浅野清博士設計監督により檜造、寄棟瓦葺で再建されました。

三滝観音は中国三十三観音の第十三番札所でもあり、桜や紅葉の名所でもあります。
木造地蔵菩薩坐像(国:重要美術品)安置

本堂に安置されているこの像は、昭和55年、三滝寺と縁故の深い田万明子夫人から、戦没学徒慰霊のために寄進されたもので、平安末期から鎌倉初期の作と考えられる一木造りの像です。

この像の特徴は、左足を前に投げ出してあぐらをかかれているリラックスしたお姿にあるそうです。

このような作例は他に1,2体存在するだけの非常に珍しいもので、静謐柔和な面相との間に不思議な調和を見せているそうです。

木造阿弥陀如来像(市:重要文化財)安置

室町時代の端正典雅な像で、本堂に安置されています。


 

十六羅漢像

 西遊記で有名な唐の僧侶「玄奘(げんじょう)三蔵法師」は「法住記」という本を翻訳されていますが、その中に羅漢に関する記述があります。お釈迦様は入滅される前に、十六人の羅漢を枕もとに呼ばれ「私のように涅槃(ねはん)に行くのではなく、永久に人間の世界にあって、人々が徳を養い、仏門に入るよう手助けをしてあげなさい」と言い渡しました。 羅漢は正しくは阿羅漢といい、
 阿羅漢は梵語のアルハット(Arhat)の音訳です。阿羅漢は
 「一切の煩悩を断尽して尽智を
 得、世人の供養を受くるに適当
 なる聖者をいふ」(『望月仏教
 大辞典』)といわれています。
 つまり、「完全に悟りを開いた功徳のそなわった最上の仏教修行者(『日本石仏事典』)であり、悟りを開いた仏弟子たち の尊称なのです。中国や日本では、この仏弟子たち以外にも、
高徳な仏道修行者たちを阿羅漢に含めています