通称(100メートル道路)と呼ばれ、市の中心を東西に延び(約4キロ余り)幅は、100メートル、緑地地帯には、国内外から贈られた樹木が茂り、数々の慰霊碑が立っております。

大火から守るために作られた防火帯でもあります。

昭和50年広島東洋カープが悲願の初優勝を飾った年に、ここをパレードしたことを機に、毎年5月、広島で最大のお祭り、フラワーフェステエィバルが開催されています。なお、昭和61年(1986年)には、「日本の道100選」に呉のレンガ通りとともに選ばれました。





平和大橋・西平和大橋

平和大橋は日の出をイメージし、また、西平和大橋は日没をイメージしており、平和と希望を象徴した橋ともいわれております。

いずれもイサム野口氏の設計です。
 
 

 
 
 

原爆殉職医師慰霊碑

手を合わせたようなコンクリート造りの高い慰霊碑は、戦時中の法律により疎開できず原爆の犠牲になられた医師200人、看護婦さんたち300人の霊に対する人間の強い願いを象徴しております。

戦争中、医師を「国手」と呼んだことにちなみ、「大地にはえた手」をデザインしたものです。

 
   
   

移動演劇さくら隊原爆殉難碑

第二次世界大戦中、日本移動演劇聯盟(れんめい)は、国家の号令のもとに結成させられた。

原爆投下の8月6日の朝、堀川町(ほりかわちょう)の桜隊 (さくらたい)宿舎には9名の劇団員がいて被爆した。

1951年8月、中国新聞社芸能記者によって質素な木製の碑が建立された。1955年8月、広島で開かれた第1回原水爆禁止世界大会で、碑の建設が新劇人 (しんげきじん)へ呼びかけられた。
現在の碑は1959年8月、新制作座、文学座、俳優座、ぶどうの会、民芸、中央芸術劇場の6劇団と「演劇人戦争犠牲者記念会」の協力によって建立された。
由来碑は広島市民劇場によって作成された。

被爆者の森

両側の緑地帯に「被爆者の森」があります。日本原水爆被害者団体協議会が平成2年(1990年)に建設して、広島市に寄贈したもので、全国48都道府県の「県の木」が植えられています。

 この森の建設は、広島県原爆被害者団体協議会が提唱しましたもので、広島、長崎の被爆者はさまざまな理由から現在全国の都道府県に住んでおられます。その人たちの核兵器廃絶と平和への願いをそれぞれの「県の木」に託して被爆地に一堂に集め、全国、全世界へ発信したいとの思いからでした。また、「県の木」が成長して文字通り森となれば、広島を訪れた人たちが平和を語り合う憩いの場となってくれるでは、との期待もありました。

 残念ながら、「県の木」が北海道から沖縄までわたるために根づきにくいものもあり、まだ森と言える状態ではありませんが、お時間がございましたら、みなさんの故郷の「県の木」と対面して下さい。