広島城は今から、約400年前に、毛利元就の孫、輝元によって築城されました。城は毛利・福島・浅野三代380年間の居城でしたが、惜しくも原爆により、石垣と内堀の一部を残し倒壊してしまいました。

現在の天守閣は昭和33年(1958年)に復元されたコンクリート造りです。明治から太平洋戦争の時代にかけて、このお城を中心に第五師団司令部・歩兵・野砲・輜重(しちょう)など多くの兵舎や陸軍幼年学校・陸軍病院などがありました。

現在天守閣は、郷土館として郷土資料・美術品などが展示されています。第一層と第2層が歴史展示室、第三層が武具・刀剣・甲冑展示室、第四層が企画展、第五層が展望台となっており高さは39メートルあります。別の名を鯉の城、鯉城といい、広島東洋カープというチーム名もその鯉にちなんでつけられたものです。

観覧料・観覧時間等は下記をご覧ください。

http://www.rijo-castle.jp/rijo/main.html



  広島大本営跡

明治27年(1894年)6月、日清戦争が始まりそれまでに山陽鉄道が開通していたことや宇品港を擁することから、広島市に大本営が移されることになりました。

広島城内にあった第五師団司令部が明治天皇のご在所とされ、ここに大本営が設けられ、明治天皇は、同年9月16日から翌年4月27日までの7ヶ月余りに広島に滞在されましたが、ご在所は木造白亜の2階建てという壮麗な建物だったそうです。

明治天皇と大本営が広島に移るにあたり、政府首脳、軍部首脳が相次いで広島へ入り、更にこの付近に臨時の国会議事堂も建てられて、帝国議会も広島で開催されております。

大本営が東京を離れたのはこの日清戦争の時の一度きりです。その後、建物は広島大本営跡として保存されましたが、原爆で一瞬にして吹き飛ばされ現在残っているのはただただ礎石ばかりです。

 
   
  中国軍管区司令部の地下通信室
 元中国軍管区司令部の地下通信室は、半地下式の作戦司令室・通信室等が設けられておりました。昭和20年(1945年)8月6日、原爆で市内の電信電話は破壊されましたがかろうじて残っていたここの軍事用電話を使って原爆に関する第一報が発せられました。「広島に新型爆弾が投下され、全滅状態である。」との第一報を発信したのは、当時14歳の比治山高等女子学校の生徒「岡ヨシエ」さんでした。連絡を受けた福山の上官は、全く信じなかったそうです。情報室、通信室、指揮連絡室は、高さ1.8メートル、奥の防空作戦室は高さ2.5メートルでむき出しになった天井の鉄骨も当時のままです。