不動院の前身は、一説には 南北朝の戦乱で散った武士達の霊をなぐさめるため、足利尊氏、直義公兄弟が日本六十余州に設立した安国寺の一寺であっとことに由来するとも言われています。以後、安芸安国寺守護武田氏の菩提寺として繁栄したが、戦国時代の大永年間(152127)、武田氏と大内氏の戦いにより安国寺の伽藍は焼け落ちてしまいました。その後50年は藁屋に本尊薬師如来を安置したと記録されています。 戦火で荒れはてた当寺を復興したのが、戦国大名・毛利氏の使僧(また豊臣秀吉公の直臣大名)として活躍した安国寺恵瓊です。恵瓊は 慶長51600)年まで住持を務め天正年間(15731596)を中心に寺域の伽藍、金堂、楼門、鐘楼、方丈、塔頭十二院などを復興整備を行なった(豊臣秀吉公は安国寺に寺領として一万千五百石を与えた、このような石高寺領は当時の中央社寺に比較しても破格の規模であったそうです)。

しかし、関ヶ原の戦いで西軍の恵瓊は非業の死をとげ、 恵瓊なき後、寺領は没収となり、寺運は次第に衰え、毛利氏が防長二国への国替で去った後、福島正則が芸備両国四十九万石の大名として入国。 当寺には正則の祈祷僧である宥珍(ゆうちん)が入り、住持となりました。この時、宗派を禅宗から真言宗に改め、不動明王を本坊に移して本尊とし、本坊を不動院と称し、後に当寺院全体を不動院と称するようになりました。 福島正則の後、浅野氏が新しい国主として広島に入り以後、藩政時代を通じて浅野家歴代藩主の保護を受けた。 不動院には長い歴史を物語る多くの文化財が所在している。



 

桜門

楼門は、金堂と同じく禅宗様の建物です。中央を通路として、前方の両脇にいかめしい仁王を安置し、後方は吹放しとした一般的な楼門の構えです。上層には内部に一室が設けられ、十六羅漢像が安置されています。この桜門は、秀吉による朝鮮侵略に従った恵瓊(えけい)が、朝鮮から良材を持ち帰って建立したものと伝えられています。上層の尾垂木(おだるき)のうち10本程に、それを裏付ける「朝鮮木文禄三(1594)」の刻名が見られます。
   

金堂(国宝・広島市唯一)

<一棟>  国宝(昭和三十三年指定)
桁行三間(けたゆきさんげん)、梁間四間(はりまよんけん)、一重裳階(いちじゅうもこし)付、入母屋造、柿葺きの建物。
大内義隆が周防山口に建てたものを安国寺恵瓊が移建し、仏殿にしたと伝えられています。

金堂天上部分
天井に描かれた天女と竜の絵には「天文九年・・・」(1540)の賛があり建物の創建もこの頃と推定されています
現存する唐様の建築としては最大の遺構であり、中世の本格的な仏殿の規模をうかがうことが出来ます。
正面一間通りを吹き放しとした珍しい構造は、大陸的な正式の手法と考えられます。

 
   
 

桜門

爆心地より3.900m

不動堂(護摩堂)は昭和10年建立されて以来 幾多の風雪にもあい、又昭和20年の原爆の災禍にも耐えた建物です。この不動堂は数少ない被爆建物ひとつで、特に貴重な木造建築です。

不動院は爆心地から3.9キロメートル、市の中心部からかなり離れた山麓に位置しているため爆風による被害以外、大きな被害を受けることはありませんでした。